アイキャッチ引用:朝日新聞デジタル
こんにちは、橘です。
今回は高校野球に於ける「名将監督」を特集していきたいと思います。
高校野球といえば、指導者の力によって選手の実力の伸びも、甲子園に出れるかどうかも大きく変わってきます。
私も中学から高校に上がる時に進路で迷いましたが、
- 野球のレベルの高い高校(全国制覇を目指せる)、
- 中学同級生の有名選手が進学予定、
- 監督に実績がある、
- 指導者と会話した時の相性、
の4つを判断の軸としていました。
自分でチームを甲子園に導く!と言えるようなMajorの本田吾郎のように私が強いハートの持ち主ではなかったため、絶対に「超名門校」に進学する!という高い志を持ちつつも、本当に甲子園に出れるのか?という視点を忘れないようにしていました。あざといですよね。
……………。
さて、今回は名将を紹介したかったんです。
高校野球には名選手がいたり、強豪校があったりしますが、その裏には「名将」と呼ばれる監督の存在があります。
現在までの高校野球の歴史の中で数多の名将が存在していましたが、本記事では元・常総学院の木内幸男氏(以下木内氏)について勝手に紹介していきたいと思います。
Contents
木内幸男氏の経歴
木内氏のコーチとしてのキャリアは1950年に土浦一高から始まりました。
木内氏は高校現役時代、主将・センターとしてチームを引っ張っていましたが、最後の夏に左中間の打球に届かず逆転負けを喫したことが心残りとなっていました。また当時の土浦一高の練習には監督がほとんど来なかったこともあり、そのまま高校に残りコーチになったそうです。
なおこの時期の甲子園出場はありませんが、木内氏が取手二高に移った翌年の夏に土浦一高は、初にして唯一の甲子園出場を達成しています。
どんな名指導者であっても一年で結果を出すのは難しく、木内氏の指導力が土台にあったことで成し遂げた甲子園出場であると推測できます。
なお、甲子園出場時の主力には、後にプロ入りし、引退後は阪神タイガースの監督、東京ヤクルトスワローズのコーチを務める安藤統男がいました。
取手二高監督時代(1957〜1984)
土浦一高時代はほぼボランティアで指導していた木内氏でしたが、家業だけでは生活に困っでいたこともあり、取手二高に就職する(教員ではない)形で移りました。
なお待遇については、拘束が少ないことを理由に、用務員と変わらない身分をあえて選んでおり、生活は依然として苦しかったようです。
なお取手二高は戦前まで女学校だったこともあり、スポーツが盛んでなく、就職当時は弱小校でしたが、木内氏の監督就任から徐々に力を付けていきました。
そして茨城県内でも強豪として有名になってきた1974年・1975年と茨城県大会で準優勝を達成し躍進を見せると、1977年に待望の甲子園出場を果たします。
この年は、後に阪神タイガース、福岡ダイエーホークス、中日ドラゴンズで活躍する大野久を擁していたこともあり、甲子園でも1勝を上げました。
それ以降は常総学院に移るまで、選抜と選手権を合わせ6回の甲子園出場を数えました。
特に1984年の選手権大会では、後にプロ入りする石田文樹、吉田剛らを擁し、順調に決勝まで駒を進めました。
決勝の相手は桑田真澄と清原一博のKKコンビが率いるPL学院であり、下馬評はPL学園有利の中、8-4で破り全国優勝を達成しました。
この時、相手がPL学園でありそのPL学園破ったことや、PL学園の「組織(管理)野球」と取手二高の「のびのび野球」との対比、木内氏自身のキャラクターもあり、全国的に有名な監督となりました。
常総学院監督時代(1985〜2003、2008〜2011)
取手二高で全国制覇の翌年、木内氏は理事長の強い要請もあり、創立3年の常総学院に移りました。
常総学院では、就任3年目の1987年に選抜で甲子園初出場を果たすなど、早くから結果を残しています。
選抜では一回戦で敗れたものの、選手権にも出場し準優勝を達成しています、なお1987年のチームは、エースにはプロでも最優秀中継ぎを獲得する島田直也と、一年生に読売ジャイアンツ等で二塁手として活躍する仁志敏久を擁していました。
その後は、安定した甲子園出場を果たしつつ、1993年選手権でベスト4、1994年選抜での準優勝、1998年の選手権でベスト8と、常総学院の全国でもトップクラスの名門校に育て上げました。
その後も結果を残し続け、2001年の選抜では常総学院で初の優勝を達成。
さらに勇退を決めた2003年の選手権では、決勝でダルビッシュ有(現・テキサス・レンジャーズ)擁する東北高校に勝利し優勝を果たし有終の美を飾りました。
勇退後は常総学院の理事として、野球部の総監督を努めていましたが、後任監督の辞任もあり、2008年に野球部監督へ復帰しました。
その後は甲子園に出場するも勝利を上げることはできず、2011年を持って再度勇退しました。
甲子園での通算成績
木内氏は3校で58年のキャリアがありましたが、その中で甲子園には春7回、夏15回の出場があります。通算の戦績は40勝19敗(取手二高:8勝5敗、常総学院:32勝14敗)です。
なお通算の勝利数は歴代で6位になります。
優勝は春1回、夏2回です。
なお茨城県勢の優勝は3回ですが、これは2校で木内氏が上げた優勝になります。
野球戦術・木内 マジック
「木内マジック」と言われる大胆な作戦が特徴です。
これは弱小の取手二高時代に、強い相手に勝利するために網だした、いわば「苦肉の策」が源流にあるそうです。
具体的には、相手の意表を突く先発起用を含む選手起用や、機動力を活かしたダブルスチール、またセオリーとは逆の強攻策がそれにあたります。
しかし、一見すると「ただの無茶」に写る攻撃も、試合の流れや相手の心理などの根拠があり、試合巧者だと言えます。
「木内マジック」を象徴するのは、集大成であり常総学院での選手権優勝を達成した2003年だと考えます。
この決勝ではダルビッシュ有を攻略したわけですが、この時の作戦は「作戦なし」であったそうです。
ダルビッシュ有を日本一と認めた上での「作戦なし」ですが、結果的にプレッシャーから解放された選手達は、のびのびと戦い結果を残しています。
大舞台で「作戦なし」とする勇気と、それで結果を出すのは間違いなく「木内マジック」であると考えます。
サイン間違いとかにビビらなくて良いので思いっきりプレイができそうです。
ちなみに2003年は選手権での本塁打は無かったものの、投手力を中心とした堅守を誇り、6試合で9失点に抑え、機動力とソツの無い攻撃で得点し優勝に結びつけました。
練習にあたっては、選手の自主性を尊重し選手が野球を理解することを重視しているようです。
そのため取手二高時代をはじめ、「のびのび野球」と呼ばれることもあります。また、指導は言葉で教えるよりも、行動を見せて学ばせるスタイルだったようです。
甲子園の1ヶ月前には、レギュラー陣は厳しい練習、厳しい言葉で心身共に追い込みつつも、直前の練習は1時間程度しかさせず、調整のうえ大会に臨ませていました。
これにより、心身ともに成長を促すとともに、自信を付けさせ、自分をコントロールする力も付けさせて大会に臨んでいたことから、全国でも好成績を残せていたのかもしれません。
ただし一方で、20年以上に及ぶ常総学院での指導でプロ入りしたのは6名となっており、常総学院の成績を考えると少ないです。
これは選手の自主性に任せており、技術的な指導は少なく、選手の個人の能力と成長に依存していたことが原因の一つだと考えられます。
木内幸男氏のプロ野球選手になった教え子
- 島田直也
日本ハムファイターズ→横浜ベイスターズ→ヤクルトスワローズ→大阪近鉄バファローズ
- 仁志敏久
早稲田大学→日本生命→読売ジャイアンツ→横浜ベイスターズ→ランカスター・バーンストーマーズ
- 金子誠
日本ハムファイターズ
まとめ
今回記事を作成するにあたり、調べてみて驚いたのは、通算での監督年数が、常総学院の23年に対し、取手二高は28年と上回っていることです。
常総学院のイメージが強かったこともあり意外でした。
しかし、甲子園での通算成績を見てみると圧倒的に常総学院での成績の方が多いことから、皆さんも同様のイメージかもしれません。
なお木内氏勇退後の常総学院は、コンスタントに甲子園出場しており、ベスト8には複数回進出しています。
木内氏の考えが浸透した常総学院が今後どういった成績を残すか注目が必要だと考えます。
また、高校野球を観るにあたり監督に注目してみるのも面白いかもしれません。
本記事を読んで頂き、高校野球をより好きになってもらえますと幸いです。