プロ野球コラム

【背番号19】引退を発表した元巨人『上原浩治』の軌跡に迫る!

【雑草魂】引退を発表した元巨人『上原浩治』の軌跡に迫る!

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去る5月20日、報道陣約140人にテレビカメラ約20台が並ぶ中行われた記者会見。

「本日をもちまして21年間の現役生活を終えたい」

と語り、現役引退を表明した上原氏。

 昨年巨人に復帰し今年、原監督の元優勝を目指すチームで雄姿を見せてくれると皆が期待していた。

だっただけに突然の悲報だった。気さくで人懐っこい性格で皆に愛された上原氏。

決してエリート街道を歩んできたわけではない彼が、プロで21年歩んできたその軌跡に迫ってみたいと思う。

投手をやりたい気持ちが強くなった高3の夏

 高校時代、控え選手だったのは有名な話。高校時代のポジションは外野手。

練習では打撃投手をずっとやっていたが、試合にはほとんど出られなかった。

高校3年最後の夏に控え投手として5~6イニング投げ、「大学で投手をやりたいな」という思いが出てきた。

高校の時は、野球部の監督からは投手をやれと何度も言われたが、走り込みが嫌で断っていた。

卒業後の進路として考えたのが、「ぼんやりと体育教師になりたかった」と大阪体育大学を受験。

結果は推薦入試、一般入試ともに連敗。相当なショックは受けた。

20年以上前のことだが、「思い出したくない過去」と語るほど

浪人し再受験するのだが、その時に支えになったのが「投手をやりたい」という思い。

大学でも野球はするつもりだったが、プロは目指していなかった。

浪人時代は予備校での勉強(それまで生きてきた18年分の勉強を1年でやりきった)、ジムでのトレーニング、

夜間の道路工事のアルバイトを両立させ、さらにノーラン・ライアン(元エンゼルスほか)の著書「ピッチャーズ・バイブル」に出合う。

その結果、大阪体育大にリベンジ合格。

しかも、トレーニングと「ピッチャーズ・バイブル」のおかげで浪人したにも関わらず、高校3年時とは比べ物にならないほど球威が増し、久々の投球では146㎞を記録したという。

苦汁を飲んだ時期が、プロ生活での糧に

 大学に入り、環境が合っていたのだろう。

「野球が面白くなり、もう一段上の“プロでプレーしたい”」

と思ったという。あの時、投手をやりたいという思いがなかったら、浪人時代の1年間がなかったら、夢の体育教師への道を選んでいたかもしれない。

 プロに入り、背番号はずっと19番(2018年は菅野智之付けていた為、11番)。

「浪人していて野球ができなかった19歳を忘れないように」という意味がある。

何日も続けて打たれたり、結果が出なかったりする時、ふと19番を見ると、「野球ができなかったあの時と比べれば、打たれようが野球が出来ている」。

辛い時期ではあったが、自分の原点に戻れるあの時があったからこそ、猛者が揃うプロで21年間やってこれたと感じる。

「NPBかMLBか」苦渋の決断

 1998年のドラフト当時、MLBのエンゼルスのアジアの責任者として大体大の上原氏と交渉を進めていた本多達也氏(62)。

阪神の編成時代にはランディ・バースやセシル・フィルダーなどの大物助っ人の獲得に成功した人物としても知られる。

本多氏は、大体大の3年時から目をつけていた。6月に行われた日米大学野球で第3戦に先発、8回を投げ14三振を奪い日米のスカウトから注目を集めた。

 「ストレートが速い。フォークがあって三振がとれる。そして彼の代名詞であるコントロールは、このときから抜群に良かった。私はセットアッパーで1年目からすぐにメジャーで使えると評価して球団にレポートを出した。チームには長谷川(元オリックス、マリナーズ他)がいたし心強さもあった」

 この年、日本のプロ野球のドラフトでは逆指名制度が導入されていたが、近鉄、巨人、そしてエンゼルスの3球団の争奪戦となり、最初に近鉄が脱落。

巨人、エンゼルスの一騎打ちとなり、最後に上原氏は、迷いながらも巨人を逆指名し、1位で入団した。

入団会見では「メジャーでやるにはまだ自信がないから、日本を選んだ」と述べ、悔しさを滲ませていらが、背景には世界最高峰のMLBを目指しNPBで実績を積もうという意気込みもあった。

実際、その夢を叶えていく。

MLB挑戦。日本で得た経験を活かし、順応。

1998年のドラフト会議で、巨人から1位で指名を受けた。

プロ1年目ながら20勝を上げて最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率のタイトルを獲得する活躍を見せ、新人賞と沢村賞をダブル受賞した。

10年間で112勝の実績を引っ提げ、2008年にフリーエージェント宣言を行い、MLBのボルチモア・オリオールズに入団。開幕から先発ローテーションに入り、4月8日でメジャーデビューし初勝利を挙げる。

しかし、ケガで戦線離脱し1年目は2勝に留まった。復帰後はリリーフ・クローザーとして起用される。日本でもクローザーとして32Sを挙げた経験を生かし順応した。

その後、テキサス・レンジャーズ、ボストン・レッドソックスと活躍の場を移していく。

レッドソックス時代の2013年にはクローザーとして大活躍を見せ、世界一を決めるワールドシリーズにも登板

。第6戦で最後の打者を空振り三振に仕留め、日本人初の“胴上げ投手”として世界一に輝くなど、計9年も活躍した。

巨人に戻って影響をたらしたもの

 引退も考える中、「野球をしたかった思いが強かった」と、巨人からの誘いを受け戻ってきた。

子供から「野球を見たい」の一言に燃えた父。

中継ぎとして決定的な場面での失点が多く、5敗がついてしまったが36試合で防御率3.63の成績を残し奮闘した。

成績以上に「上原浩治」という存在だった。

マウンド上ので闘志、バッターを抑えベンチに戻ってきた際の激しいハイタッチでチームに活気をもたらしてくれた。

これから期待すること

 1999年から2001年まで阪神の監督として上原氏と対した野村克也氏は、

「1999年4月4日のプロ初登板でこそ黒星を付けたが、3年間で10勝を稼がれてしまった。107回2/3でわずか15四死球(2敬遠含む)、恐るべき制球力だった。全盛期の上原が直球とフォークボールだけで勝利と完投を積み重ねることが出来たのは、高い原点能力(投手の生命線である外角低め直球の制球力)があればこそだった。『上原を見習え』と言えなくなるのは寂しい。彼にはフォーク、制球力、打者に向かう姿勢を後進に伝える責務がある。上原を見習った弟子が現れるのを期待している」

と言い放ったほどだ。

 控え選手がNPB・MLBの一線で活躍するまでになったのは、辛かった時期を乗り越え「野球をしたい」気持ち持ち続けてこれたからだ。

その意思を受け継ぐ「第二の上原浩治」が輩出され、輝き放ってくれることを切に願っている。


参考資料:

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190521-00010001-wordleafs-base

https://www.google.co.jp/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASJDV3CSVJDVUEHF002.html

https://www.google.co.jp/amp/s/biz-journal.jp/i/amp/2019/05/post_27983.html

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190521-00000519-sanspo-base

 

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