プロ野球歴代最強特集

プロ野球・中日ドラゴンズファンが考える歴代強打者TOP5

アイキャッチ引用:Dragons Onlineshop

こんにちは、橘裕司です。

今回は、中日ドラゴンズファンの方に、同球団の歴代強打者TOP5についてまとめてもらいました。

とても面白い内容になっていますので中日ドラゴンズファンの方は共感を覚える内容だと思います。

立浪の現役時代とか、感慨深いですね。

橘裕司
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〜直近5年の中日ドラゴンズの実態〜

近年は5年連続Bクラスと低迷が続いている中日ドラゴンズ(以下中日)ですが、球団創設は1936年と歴史があり、日本一には2回(1954年、2007年)、リーグ優勝は9回(1954年、1974年、1982年、1988年、1999年、2004年、2006年、2010年、2011年)を数えます。

5年連続Bクラスの前は11年連続Aクラスを記録していました。強い時の中日のイメージといえば、一般的には「投手を中心としてロースコアゲームで守り勝つ野球」のイメージがあるかと思います。

これはナゴヤドームを本拠地とすることから、1発による大量失点(得点)が少ないことに起因しています。しかし、2000年以前の中日は「強竜打線」といわれ、守り勝というイメージは薄く、打力と投手力のバランスで勝っていたイメージでした。

今回はそんな中日の歴代最強打者TOP5を紹介します。

なお今回選定するにあたっては下記条件を設けました。

  • 日本人であること
    中日は伝統として外国人の強打者が多いです。外国人も含めてしまうと、意見が割れてしまったり、TOP5を選ぶのが困難になってしまうことから、今回は外国人は除外することとしました。
  • 1985年以降の入団であること
    実際にプレーを見たことが無い選手を選ぶことに抵抗があり、筆者がプロ野球を見始めたのは1990年代後半であることから、1985年以降入団の選手としました。また82年の歴史があることから、すべての歴史の中からではTOP5を選定することが困難であることも理由です。
  • 他球団の在籍が有る選手は中日に8年以上在籍の場合は選定対象とする
    生え抜きの強打者もいますが、他球団に行った/他球団から来た選手も紹介したいため、このような基準を設けました。

それでは以下より紹介させて頂きます。

立浪和義

引用:東スポ

PL学園高校から1987年にドラフト1位で中日に入団。

その後は「ミスタードラゴンズ」の愛称で、現役引退までを中日に在籍していました。

入団当初からショートのレギュラーを獲得し、チームの中心選手として活躍しました。

なお高卒新人での開幕スタメンはセ・リーグでは立浪選手以降は出ていません。

1992年からはセカンドに転向し、その後はチーム事情でサード、現役の後半では外野やファーストを守ることもありました。

背番号は入団当初から一貫して3番を背負っていました。

この背番号は、中日生え抜きの有望な内野手に代々引き継がれています。

選手としての特徴

グリップを握る際に左右の手に間隔を開けて握り、右足を高く上げるフォームから、広角に打ち分ける打球が特徴です。

特筆すべきは二塁打の多さで、日本記録の487本記録しており、プロ初安打も最終安打も二塁打を記録しています。

一方で通算本塁打は171本であり、通算安打数のランキングに名を連ねている選手の中では極端に少ない数字です。

シーズンでも20本塁打を記録したことはなく、中距離バッターですが、記憶に残るホームランが多く、勝負強いバッティングとパンチ力が魅力でした。

また、打った後のバット投げにも特徴があり、フォロースルーの後に三塁方向にバッドを投げる姿が印象的でした。

通算打率の.2845は6000打数以上では37位、4000打数以上では92位にランクインしています。

記憶に残る打席

立浪選手のホームランで一番筆者の記憶に残っているホームランを紹介します。

2006年の巨人戦で上原選手から放ったサヨナラ満塁ホームランです。

インコースの球を綺麗に捌く打撃は立浪選手の真骨頂といえます。

2004年の日本シリーズ西武戦で、今年から中日に移籍した松坂選手を相手に放ったホームランを紹介します。

当時ピークの松坂選手からナゴヤドームのスタンドまで飛ばしたパンチ力と、前述したバッド投げを見てもらえたらと思います。

和田一浩(中日在籍は2008年〜2015年)

引用:sportiva

岐阜商業高校から東北福祉大学、神戸製鋼を経て1996年ドラフト4位で西武ライオンズ(以下西武)入団。

2007年のシーズンオフにFA宣言し、岐阜出身ということもあり中日に入団しました。

ポジションは、西武入団当初はキャッチャーでしたが、当時キャッチャーには伊東勤がいたこともあり、打力を活かすために2年以降は外野手へ転向しています。

背番号は入団当初は22番、2000年以降は引退するまで5番を背負っていました。

選手としての特徴

特筆すべきはその打撃フォームです。

バットは上段に極端なオープンスタンスな構えから、左足高く上げ体全体で強くスイングするフォームは他に類を見ません。

またそのフォームから放たれる打球は、フォロースルーだけを見ると完全なプルヒッターですが、打球は左右ともに飛距離が有りライト方向にも伸びがありました。

また、インコースの打球を捌くのも旨く、ファウルになりそうでならない打球も多かったです。

さらにピッチャーの左右を苦にすることもない上に、苦手なコースも少なく、穴の少ないバッターでした。

ただし、足が速く無いことと、そのスイングから併殺打は多い傾向がありました。

通算打率の.303は6000打数以上では8位、4000打数以上では18位にランクインしています。

本人はホームランバッターではないと言っていますが、通算本塁打の319本は39位にランクインしています。

記憶に残る打席

阪神戦での藤川選手から放ったホームランを紹介します。

低めの打球に強いスピンを与え、伸びのある独特の打球で甲子園のバックスクリーンに放り込む姿は、これだけ見ても強打者であることは分かると思います。

山崎武司(中日在籍は16年)

引用:president

愛工大名電から1986年ドラフト2位で入団。

主軸として活躍していましたが、FA宣言で中日残留した翌年にフロントと仲違い、トレード志願し2003年から2004年はオリックス・ブルーウェーブ(以下オリックス)に在籍、分裂騒動の後2005年から2011年までは東北楽天ゴールデンイーグルス(楽天)に在籍、2012年から2013年は中日に在籍し、2014年にオープン戦1試合限定で支配下登録され、引退試合を実施しました。入団当初はキャッチャーでしたが、打力は認められながらも1群に定着出来ていなかったところ、外野へコンバートされました。

その後ナゴヤドームに移転したこともあり、外野の守備負担が増えたこともあり、ファーストにコンバートされ、その後は引退まで指名打者はファーストがメインでした。

背番号は入団当初は22番、2000年以降は引退するまで5番を背負っていました。

背番号は第一次中日在籍時と引退試合時は22番、オリックス時代は5番、楽天時代は7番を背負っていました。

また、球界屈指の車好き知られ数多の高級車を所有するとともにレースにも参加しています。ラジコンも好み、元中日の山本昌と並びラジコン界の有名人でもあります。

選手としての特徴

左足を高く上げ、一度グリップを下げる打撃フォームから、左中間方向に強い打球を飛ばすイメージがあります。

規定打席に到達しての3割到達回数は2回と、打率は決して高くなく三振も多いバッターでしたが、上記に有る通り本塁打数は多く、典型的なホームランバッターでした。

ちなみに400本塁打を記録し2000本安打を達成していないのは、田淵幸一、タフィ・ローズと山崎武司だけです

また勝負強く、記録以上に記憶に強く残るバッターです。

特筆すべきは、第一次中日在席時にピークを迎え、さらにピークが終わったと思われていましたが、楽天在籍により再度ピークを迎えたバッターであることです。

年齢別の歴代最多本塁打は39歳時の43本塁打と41歳時の39本塁打で記録しています。この記録は本当に偉大な記録だと思います。

通算本塁打は400本を越え、歴代18位です。本塁打王に2回(1996年、2007年)、打点王1回(2007年)を記録しており、史上3人目のセ・パ両リーグでの本塁打王を達成しています

記憶に残る打席

第一次中日時代の動画を紹介します。

1999年、9回表に逆転を許した後の逆転サヨナラ3ランであり、感動的な場面でした。

チームはここから勢いづきリーグ優勝を達成したこともあり、シーズンのターニングポイントとなった試合となりました。

福留孝介

引用:sportiva

PL学園高校から日本生命を経て1998年ドラフト1位(逆指名)にて中日に入団しました。

ちなみに高校時代から有名であり、7球団が1位指名で競合となり、これは1985年の清原和博の6球団1位指名を凌ぎ、2017に清宮幸太郎が7球団競合となるまでは高校生では最多でした。

なお競合の末、近鉄バファローズが指名権を得ましたが、本人は「中日・巨人以外なら社会人」と決めていたことも有り、入団拒否となりました。

入団当初はショートを守っていましたが、守備は不安定でありルーキーイヤーにはサヨナラエラーも記録しています。

また打撃についても三振が多くムラの多いバッターでした。

その後、成績の上下はありましたが、外野にコンバートされた2002年に打撃が開花し首位打者を獲得します。

2002年以降はムラの多い打撃は無くなり、高打率も記録しながら30本塁打を記録するなど、非常にバランスのとれた選手になっています。

安定した記録を残していく中で、2007年オフには海外FAでシカゴ・カブスに移籍します。

その後は2011年シーズン途中からクリーブランド・インディアンス、2012年にはシカゴ・ホワイトソックスに在籍し、2013年からは阪神タイガースに在籍しています。

なおメジャー時代は、メジャーの投手に苦しめられていましたが、二桁本塁打と3割後半の出塁率を安定して記録しており、一定の成果は挙げました。

背番号は1999年から2012年までは1番、2013年からは8番を背負っています。

選手としての特徴

打撃フォームは節目のシーズンで細かく変わっています。

特に2002年は広島の前田智徳選手を参考に、バッドをトップに近い位置で構えるようにしたことで成績が向上したようです。

四球率と出塁率が高く、打席での辛抱強さと選球眼には定評があります。打撃タイトルは首位打者のみですが、ナゴヤドームが本拠地でありながら中日時代には30本塁打を2回マークしており、広角に打つ力とパンチ力もあります。また、走力があることから二塁打、三塁打も多いバッターでした。

2002年以降は高い出塁率を誇っており、中日時代には最高出塁率を3回(2003年、2005年、2006年)記録しています。

首位打者は2回(2002年、2006年)記録しています。

ルーキーイヤーには121個の三振でリーグトップでしたが、中日時代は毎年100個前後の三振を記録していました。

記憶に残る打席

2004年に巨人戦で上原浩二選手から放ったホームランを紹介します。

ホームランバッターというよりも中距離バッターのイメージが強い福留選手ですが、この時のホームランは推定150mの大ホームランでした。

中日でのホームランではないですが、福留選手を紹介するにあたっては無視できないホームランが下記です。

この時のWBC日本代表は予選リーグで韓国に2回負けており、何とか決勝に進んだところでの韓国との再戦となり、試合が均衡している中での代打先制ホームランということで、当時は日本中が飛び上がったホームランでした。

荒木雅博

引用:number

熊本工業高校から1995年ドラフト1位にて中日に入団しました。

1995年のドラフトでは、中日は上記の福留選手を1位指名しておりましたが、交渉権が得られず、外れ1位も交渉権が得られず、外れ外れ1位として荒木選手が指名された経緯があります。入団後しばらくは走力を活かし、代走や外野の守備固めが主でした。

打撃の急成長に合わせ、内野での守備力も向上し、2002年以降は1番バッターとして、二塁のレギュラーに定着しました。

2番かつショートの井端選手とは「アライバ」の相性でコンビとしてファンに親しまれました。背番号は入団当初から一貫して2番背負っています。

選手としての特徴

打撃フォームは、バッドをかつぐようにして構え、若干のオープンスタンスから摺り足でスイングするフォームです。

1998年から2003年までは両打ちでしたが、2004年以降は右打ちに戻っています。

短距離バッターであり、キャリアハイの本塁打数は2001年と2008年の4本となっており、2000本安打達成者の中で唯一2桁本塁打を達成したことがない選手になります。

通算打率の.268は6000打数以上では39位、4000打数以上では74位にランクインしています。

盗塁王は1回(2007年)記録しており、通算盗塁数の378個は歴代11位にランクインしています。

記憶に残る打席

短距離バッターの一番ではありますが、先頭打者本塁打を1度だけ記録しています。

それが下記動画になります。先頭打者初球ホームランは1番バッターの特権であり、素晴らしいです。

荒木選手というと走塁を紹介しないわけにはいきませんので、下記動画を紹介します。

盗塁王も獲得しており、足も速いのですが、それよりもランナーとして走塁の方が印象となるプレーが多いように感じます。

まとめ

賛否両論あるかと思いますが、筆者の独断と偏見で5人の打者を選定させて頂きましたがいかがだったでしょうか。

現役選手も2選手紹介していますので、これからの通算記録に注目して見るもの面白いと思います。

この記事を読んで過去の選手や試合を思い出したり、別の意見を考えたりして、野球がより好きになってもらえると幸いです。


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