プロ野球コラム

成績好調で「西武ライオンズのリーダー」秋山翔吾の人生を振り返る

「西武ライオンズのリーダー」秋山翔吾

ミートの上手さ、パワー、走塁スピード、守備力、そして強肩。

この5つの能力を備えた選手を大リーグでは、「5ツールプレーヤー」と言い、高く評価される。

その5ツールにおいてハイレベルなスキルを持ち、ダイナミックなプレーが魅力である秋山翔吾選手。

秀でた打撃力はもちろんのこと、特筆すべきは守備面。

広い守備範囲と強肩を持ち合わせて、球界を代表するセンターとして活躍している秋山選手とは一体どんな人物なのだろうか。

 

リーダーとして大きな役割を担う

もっとも評価されるべきだと思うのが高いコミュニケーション力だ。他人の意見を聞き、感じたことを口にする。

それは野手に限らず、投手に対しても同様だ。

キャンプ中には投手が多く集まるトレーニング場にいて、そばにいる選手に積極的に言葉をかける。

それは些細な一言であっても大事なことで。

例えば、初めて一軍に呼ばれた選手であれば、その場に馴染むきっかけになる。

そうやって先輩、後輩の垣根なく誰もが野球を語れる環境を作ってきたのは間違いなく秋山選手である。

打線であっても秋山選手が中心となって投手の球筋や傾向、どう攻略していくかなどをベンチで話し合うのが西武ライオンズでは恒例となっている。

同僚の源田選手は

「今までの野球人生であそこまで野球やチームのことを考えている人には会ったことがありません。僕の打席についても、凄くよく見ていてくれて、例えばちょっと打ち方やボールの見方を変えたりすると、すぐに気づいて「変えたんだね」とか「ああいうの珍しいね、どうしたの?」と言葉をかけてくれるんです。

それだけ僕のことを気にかけて見てくれている人だから、秋山さんの言葉やアドバイスはすっと心に入ってくる。とても信頼しています。

と、リーダーとして頼りにされている。

 

打撃、守備について

入団1年目から、球団の新人外野手としては30年ぶりとなる開幕スタメンを勝ち取り、レギュラーとして試合に出ていたが、入団から4シーズンは打率は3割に届かなかった。

転機は2015年、打撃フォームを大きく変えたことだった。

秋山選手が言うには、「チームメイトの森友哉の打撃フォーム」をヒントにしたとのこと。

それは、構えた時のバットの位置を2014年以前よりも、低くしたのだった。

低くすることで、インパクトまで最短距離でバットを出すことができ、線でボールを捉えることが上手く出来るようになったと言う。

新ファームを習得し、2015年はNPB記録となる216本ものヒットを放った。

また、秋山選手と言えば、「美しい」という表現がピッタリの守備力をしている。

184cmの大きな体が俊敏に外野フィールドを疾駆し、落下点までまさに一直線に向かう。

まったく無駄のない走りでボールをキャッチする。

前方への飛球に対して、少し苦手という感じが本人にはある。

だから、定位置よりもやや前目に守備位置をとる。

それでも後方に飛んだ打球は逃さない。

前の位置で守るのは、後方への打球の自信の表れなのだろう。

「他の球場ではまだまだ、というところもあるけれど、西武ドームは一番守り慣れている球場なので。フェンスとの距離感や打球の感覚は何となく頭の中で分かります」

と秋山選手は語り、西武ドームのセンターフィールドは”自分の庭”にしている。

鋭いライナーも大飛球もまさしく見せ場。

右中間、左中間へと打球を追って駆け回り華麗にキャッチしている。

「外野の飛球を常に10の力で全力で追っていくのはけっこう難しい。でも、秋山はそれができる。そして捕球してから投げるまでのスピードとコントロール。プロの世界ではそうしたものも大事だが、それも優れている」

元西武ライオンズの守備走塁コーチであった河田雄祐は、秋山選手の守備に対し評していた。

人柄を現す活動

招待試合は大活躍を見せる。

秋山の人柄を表すのが、2015年5月から始めた「ひとり親家庭への支援活動」である。

埼玉県内の一人親親家庭の親子を球場に招待している。

キャッチボールを教えたのも父なら、左打ちを仕込んだのも父である。

「父は僕が生まれた時から、僕をプロ野球選手にしたかったようです。父自身は高校までしか野球をやっていない。ケガでやめざるを得なかったという話なので、プロへの憧れがあったのかもしれません。だから父との思い出といっても、野球に関するものばかり。野球を通しての親子関係というか……。僕を左打ちにしたのも〝一塁に近いから有利〟という思いがあったからだと聞きました」

父がスキルス性の胃ガンで突然世を去ったのは、秋山選手が小学6年生のときだった。

それから母は3人の子供を女手一つで育て上げた。

教師をしていたこともあり、夫を亡くしてからは非常勤講師として教壇に立った。

「父が僕らに残したものは野球しかなかった。それを経済的な理由で断念させたくなかったのでしょう。中学校時代のシニアリーグは当番制のお手伝いで、母は朝早くから出かけたり、夜遅くまで残らないといけない時もあった。弟や妹もいるのに……。僕自身、すごく母には苦労をかけたな、という思いが強いんです」

父と約束したプロ野球選手となり、日本を代表する好打者に成長した。

今では子供たちに夢を与える立場になり、

「また来たいと思ってもらいたい」

その思いが、2018年に4回あった。この企画の日の打率4割1分2厘の好成績に繋がっている。

「プロに行きたい」から「プロに行く」気持ちに!

高校時代は甲子園に出場こそ果たせなかったものの、プロのスカウトから高い評価を得ていた。

本人は「プロに行きたい気持ち」が強く、高校3年のときにプロ志望動届を提出するが、ドラフトにかからず、誘いのあった八戸大学(現、八戸学院大)へ進学。

依然としてプロになりたい気持ちは強かったということで、当時、監督として指導しいた藤木豊氏から、周りと一線を画す対応だったという。

結果ではなく心構えやプロセス。プロ野球選手としての対応力を教えてもらった。

秋山選手は「この出会いがかなり大きかった」と語っている。

 

藤木氏は大学3年時の終わり頃の秋山選手について、「試合を決める場面で勝負弱かったし、プレーヤーとして周りを惹きつけるような魅力はなかった」と感じており、

本人に「この1年はチームも大事だがプロに実力を認めさせる品評会になるんだから」とはっぱをかけた。

これが胸に響き、「プロに行きたい」から「プロに行く」と覚悟も持って日々を過ごし、4年春のシーズンはなんと打率.486を残した。

結果もそうだが、なによりも「華が出てきた」と藤木氏は感じていた。

ここでの変化がプロへの道を切り開いたと言える。

NPB史上2人目となる200安打に向けて

5ツールプレーヤーとして活躍する背景には、活躍するためにしっかりと考えられた準備があってのことだ。

自分がどうするれば輝けるかを考え行動する。

「ホームラン」よりも「安打数」を重要視する、西武ライオンズのリーダーがNPB史上2人目となる200安打に向け今日も邁進する。

 

参考資料

https://number.bunshun.jp/articles/-/832018?page=3

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/44568

https://www.hb-nippon.com/column/1393-kataruh/12592-20180511no56kataruh?page=2

https://www.nikkei.com/article/DGXZZO60391070Q3A930C1000000/

 

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